週休2日

どうか今日も適当に生きて

どう考えても魅力

突然だが、ここで「高校生」について考えてみたい。久しぶりの更新でこんなテーマであるが心配しないでほしい。そして私はそんな変な趣味とかではない。

青春とは。人によって捉え方や時期は少しずつ違うかもしれないが、ほとんどの人が高校生時代のことを思い浮かべるだろう。あのキラキラした時間や思い出はどうやって作り出されるのだろうか、何故、終わってからその輝きに気付くのだろうか。そして私は何故こんなことを考えているのか、私が女子校出身だから、恋仲で流れる高校生時代のワチャワチャしているシーンを見て憧れているわけでは決して無い。断じて無い。もちろん、モンストのCMに目を奪われてしまったからではない。

まず、「制服」というものの威力が凄い。毎日毎日同じ制服を着て、はやく脱ぎたいと思っていたのもついにいい思い出となってしまった。小学生も、中学生高校生も、大学生も、みんな同じ「学生」であることに変わりは無いが、何故だか「高校生」というブランドはそのどれよりも強いものである。その何より強い力を持ったブランドを自ら社会にアピール出来る制服。
何故制服はパワーを持っているのだろうか。何気無い日々の生活でも制服を着て、教室で喋ったりマックで勉強したりするだけで特別な思い出になる。この力はどこからやってくるのか。
そしてあの若さ。若いって素晴らしいと最近本当によく思う。そこのあなた、それ老化ですよとか言わない。私が高校生だった時思っていたのは「あとお金と時間さえあれば…」。行動力も思考力もある程度備わる高校生、やる時はなんでもやりきってしまうし、どこへでも行けてしまう。その怖いもの知らずな強さは後にも先にも高校生の時だけだろう。若さ故の力はこの時の特権だったのだろう。若さ故の楽しさ、悲しみ、間違い、全てひっくるめて青春だ。
少し自分の経験の話になってしまうが許してほしい。私の場合青春と言われると、中高の6年間になる。中高一貫の女子校に通っていたからである。高2、高3の辺りで薄々気付いていたが、どうやら私の学校(学年)(周辺)は少しおかしかった。例を挙げるなら、水風船やシャボン玉やゴム風船は遊び道具で、廊下でテンションがあがって水風船をやったあと、片付けが大変だと気付いて爆笑したり、部活前に校内で鬼ごっこをしてクタクタの状態で部活に参加したり…。例えば?とよく聞かれるが、毎日こんな様子だったのでいまいちたくさんエピソードを覚えていない。これは私だけではなくてみんなそうらしい。とりあえずまずなんでもないことで爆笑(文字通り爆発的に笑っていた)し、何故か共通の笑いのスイッチがあって、街中の出来事なり看板なりですごい勢いで笑えたり、毎日毎日みんなが小さな楽しみを拾って集めて、日々をとにかく笑って過ごしていた。こういった生活が終わるなんてことは当時は全くと言っていいほど気にしてなくて、気がついた時にはもう卒業間近、という状態だった。卒業式も謝恩会もとりあえず忙しいと楽しいしか無くて、最後だから楽しもう、という感情はあったといえばあったが、その本気度に関しては全くなかっただろう。何故なら「終わる」ということが分かっていなかったからだ。
制服のパワー、若さという武器、その答えは儚さだと思う。制服を正しく着ていられる時間は、意外と短い。いつか着れなくなってしまう。「制服には終わりがある」。終わりがあることをその時は分からなくても、終わってから気付くことがある。
つまりここで何が言いたかったかといえば、青春というのは始まった時点で既に終わりに向かっていて、終わってみないとその大きさに気がつくことが出来ないということだ。街中を笑いながら歩く高校生を見て懐かしさと同時に少し切ない気分を覚えるのは、その風景に過去の自分を重ねて、何故あの時の大切さに気が付けなかったのかと後悔してしまうからだろうか。気付いた時にはもう遅い。まさにこのことだ。だから現役DK、JKの皆さんには今の自分を精一杯謳歌してほしい。今皆さんが着るのがめんどくさいと文句を垂れているその制服は嫌でも脱がなければならない時が来る。やりたいことがある時はやる。寝たい時は寝る。食べたい時は食べる。遊びたい時は遊ぶ。親や先生に怒られたって(怒られて笑い事にならない人は怒られるギリギリのラインで)、楽しいことは楽しい。是非後悔のないように、時間を大切に使って欲しい。

でもここで思うのは、青春は終わってから気が付くからこそ、大人になってから輝くものなのかもしれない、ということである。あの時を大切にしておけばよかった、と後悔しながらも、何も考えずに生きていた時間が今とても愛おしい。この矛盾だらけの素敵な時間、青春。まさに青い春。未熟な人間の、人生における春。どう考えても魅力しかない。